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プロローグ


新宿の高層ビル群。東京タワーの赤。スカイツリーの白。渋谷の遠い灯り。——深夜の東京が、眼下に光っていた。

九階のベランダに、翼は立っていた。

裸足だった。コンクリートの冷たさが足裏を刺していた。十二月。パーカーの上に何も羽織っていない。指先の感覚が薄れ始めていた。

手すり。金属の冷たさ。両手でそれを握っている。地上まで二十七メートル。エントランスの明かりが——足元の、遠くに見えた。

翼はその下を見ていた。

——死にたい、と思っていた。そう気づいた時、翼は驚かなかった。いつそう思い始めたのか、もう分からなかった。


数日前まで、ここには美咲がいた。

内見の日、翼はこのベランダに出た瞬間に決めた。新宿のビル群が正面に並び、左手に東京タワーが霞んで見えた。「ここにしよう」。美咲が「広くはないね」と笑った。景色で選んだ。広さより、眺め。翼らしい選び方だった。

——あの日と同じ手すりを、今握っている。あの日の手すりは陽に温められていて、今の手すりは指先の体温を奪っていく。同じ場所が、まるで別の場所になっていた。

靴箱は空だった。テーブルには手紙と鍵だけが残されていた。何日もそのままになっている。「おかえり」と言ってくれた人は、もういない。

美咲の笑顔が眩しすぎた。それを素直に受け取れればよかった。どれだけ支えてくれていたか——翼は最後まで、気づかないふりをしていた。


会社も失った。

うまくいくと信じていた。疑いもしなかった。——それが三ヶ月で崩れた。一緒に始めた仲間がいた。クライアントが増え、チームが育った——それがある日、市場ごと消えた。AIのほうが速くて安い。翼のやり方は古い武器だった。その武器が折れた時、翼には何も残っていなかった。

仲間が最後に「高橋さん」と呼んだ声を覚えている。最後まで丁寧だった。その丁寧さが、むしろ距離だった。

スマートフォンの電源は切れたままだった。何日も触っていない。仲間から三件、母から一件——着信があったのは覚えている。翼が自分で切ったのだ。繋がりを。全部、自分で。

チームが結果を出した日の歓声が耳の奥で鳴った。仲間が一人で初めて仕事を決めた日。あの時は笑えた。誇らしかった。あの拍手が——今、耳鳴りのように残っている。

あの時、俺は天井にいた。全てが噛み合っていた。美咲との食卓にワインの赤い色が揺れていた。安い赤ワイン。IKEAのグラス。千五百円のワインが世界で一番うまかった。

——それが今、全部消えた。テーブルの上にあるのは、手紙と鍵と、電源の切れたスマートフォンだけだ。

全部、俺の選択だった。

誰にも相談しなかった。忠告を遮った。同じことをしていると書かれた。同じことだと言われていた。翼だけが——気づかなかった。

気づいていて、目を逸らしたのかもしれない。


新宿のビルの光が、かすかに瞬いた。

あるいは翼の目が揺れただけかもしれなかった。視界が滲む。金属の手すりが指に食い込んでいた。いつの間にか、強く握っていた。

下を見た。

エントランスの灯りが小さく見えた。九階。二十七メートル。夜風がパーカーの裾を揺らした。腹の底が冷えていた。全身から力が抜けていく感覚があった。まるでこの手すりだけが、翼をこちら側に留めているような。

——楽になれる。

その思考が来た。翼が呼んだのではない。勝手に来た。静かに、はっきりと。まるで他人の声のように、頭の中を通り過ぎた。

目が滲んだ。拭う気にもならなかった。

手すりの向こうの闇が——深かった。東京の夜景が美しければ美しいほど、その下の暗がりは深く見えた。

翼はそこに立っていた。裸足で。指先の感覚が消えかけていた。


……いつからだ。

いつから、こうなった。

記憶が巻き戻る。混乱した思考の中で——映像が逆回転するように。

会社の最後の日。仲間の背中。美咲の手紙。口座の残高。父の食卓の沈黙。結婚式の白い花。このベランダの午後の日差し。

もっと前だ。もっとずっと前——

あの日。四月の。

転職初日の朝。プールサイドに似た営業フロアの喧騒。蛍光灯の光。受話器を挟む声が重なり合って——

そこから、全てが始まった。