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第一章「転職者」


四月の営業フロアは、どこかプールサイドに似ている。

午前九時のネクスト・キャリア本社オフィス。受話器を挟む声が三つ、四つ、五つ——互いに重なり合いながらフロア全体にさざ波のような喧騒を作っていた。

高橋翼は、その波の中に立っていた。

紺のスーツに白いシャツ。ネクタイの結び目がわずかに歪んでいる——転職初日。二十八歳になっていた。


新卒で入ったのは中堅メーカーの法人営業だった。自動車部品のルート営業。既存顧客を回り、見積もりを出し、発注を取る。翼は誰よりも件数を回った。二年間、行動量だけはチーム一位を維持していた。数字は出していた。

だが、二年で天井が見えた。

上司に掛け合うたびに返ってくるのは「まだ早い」「やり方は決まっている」という蓋だけだった。

新規開拓用の提案書を三晩かけて作り、持っていった夜がある。上司はそれを机の端に置いたまま、話を別の件に切り替えた。翌日には提案書のことを忘れていた。

三日待って、四日目に、翼は辞めた。

二社目はIT企業の法人営業だった。今度は裁量のある環境を選んだつもりだった。だがチームの空気が合わなかった。二年で辞めた。

三社目はSaaS企業の法人営業だった。プロダクトは良かった。数字も出した。だが会社の営業方針と合わなかった。現場の声を反映させようとするたびに「戦略は上が決める」と跳ね返された。二年で辞めた。

行動量で数字を出し、壁にぶつかり、環境のせいにして、辞める。同じことを繰り返している自覚はなかった。


このご時世、転職は珍しくない。だが二十代で三回というのは、さすがに多い。翼自身にもその自覚はあった。

転職活動くらい、すぐ終わると思っていた。

最初に登録したのは業界最大手のエージェントだった。面談はオンライン。画面の向こうで三十代半ばのアドバイザーが翼の職務経歴書をスクロールしながら、テンプレートの質問を読み上げた。

「ご希望の年収レンジは?」「勤務地のご希望は?」「転職理由を教えてください」

翼は提案書の話から始めた。三晩かけて作った新規開拓の提案を、上司が机の端に置いたまま忘れたこと。「提案を聞いてもらえなかった」と言いかけたところで、アドバイザーは「なるほど、裁量の大きい環境をお探しなんですね」と要約し、すでにフィルターをかけた求人一覧を画面共有した。

五社。

どれも翼が自分で検索すれば見つかるような案件だった。面談は三十分で終わった。

二社目は中小の特化型エージェントだった。担当は熱心で、電話も頻繁にくれた。ただ、話を聞いているようで聞いていなかった。

「高橋さん、この案件すごく合うと思うんです」

翼が「なぜですか」と訊くと、「成長企業で裁量が大きい」としか返ってこない。翼の前職での具体的な仕事内容は一度も訊かれなかった。「この求人だけは受けてほしい」と三回言われた。クライアントとの契約の都合だろうな、と翼は察した。三回目で返信をやめた。

二社とも、翼を見ていなかった。職務経歴書は見ていた。年齢も、年収も、希望勤務地も把握していた。でも、翼自身が——なぜメーカーに入り、なぜ行動量で勝とうとし、なぜ「まだ早い」と言われて折れずに提案書を作ったのか——そこには誰も触れなかった。

エージェントなんてそんなものか。翼は半ば諦めかけていた。


Xでたまたまリツイートが目に入った。

「良いキャリアアドバイザーの条件。条件を聞かないこと。」

短い投稿だった。発信者は「高城翔太|ネクスト・キャリア代表」。

人材紹介会社の社長がそんなことを言うのか、と翼は画面に引っかかった。

プロフィールを開くと、業界の構造的な問題を淡々と語る投稿が並んでいた。

「求人票を右から左に流すだけのエージェント」「決定数を稼ぐために求職者の希望度が低い案件を推す構造」「三ヶ月以内に退職されれば手数料を返金するルール」「だから短期離職を防ぐために圧をかける」「悪循環」。

翼は、高城の名前で検索した。会社のホームページに代表メッセージがあった。書いてあることは正論だった。ただ、PR文というには飾り気がなかった。

直接連絡してみた。

社員レベルの面談を経て、最後に高城と面談した。オフィスの一角、パーティションもない簡素な打ち合わせスペースだった。高城はスーツではなくグレーのポロシャツを着ていた。肩幅が広く、首が太い。椅子に座っていても、立っているときと同じ重心の安定感があった。

「なぜ辞めたいの?」

最初の質問は二社目のエージェントと同じだった。翼はいつものように「裁量が——」と言いかけたが、高城はそこで頷かなかった。

「それは理由じゃなくて結論だろ。提案書を作ったって言ったな。何の提案だ」

翼は答えた。自動車部品メーカーの既存ルート営業に、新規顧客へのアプローチを組み合わせる提案。具体的な数字、ターゲット企業のリスト、三ヶ月のスケジュール。

「それ、上司に何て言われた?」

「『まだ早い』と」

「お前はどう思った?」

「——悔しかった、です」

「悔しいのはいい。でも悔しいだけで辞めたんだろ? 上司と直接ぶつかったか?」

翼は口を閉じた。ぶつかっていなかった。提案書を机に置いて、反応を待っただけだった。待って、無視されて、腹を立てて、辞めた。

高城は腕を組んだまま、翼の沈黙を待った。十秒。二十秒。翼の方が先に口を開いた。

「——ぶつかってないです」

「なんで」

翼は考えた。考えて、思い出した。上司に直接掛け合おうとした瞬間、胸の奥でブレーキがかかった感覚。反論されるのが怖かったのではない。反論すらされず、流されるのが怖かった。否定されるより、存在ごとスルーされることの方が——。

「——否定されるのは、まだいいんです。無視されるのが、一番きつかった」

声に出したのは初めてだった。胸の奥の、言葉にしたことのない部分が震えた。高城は頷いた。大げさな共感ではなく、「聞いた」という事実だけを示す頷きだった。

そこから四十分、高城は翼の話を聞いた。前職の話だけでなく、大学時代の話、部活の話、どんなときに「やれる」と感じ、どんなときに引いてしまうのか。翼自身も整理できていなかったパターンが、高城の問いに引き出されて、ぼんやりと輪郭を持ち始めた。

面談が終わったとき、翼はオフィスを出て駅に向かう道で立ち止まった。

こういう人間になりたい。

上司にも、エージェントにも、友人にさえ言ったことのない言葉が出てきた。条件でも年収でもなく、自分自身を——言葉にならない部分まで——聴いてくれた人間。

人材紹介なら、動いた分だけ自分の数字になる。それもあった。でも、あの四十分が、翼をこのフロアに連れてきた。


ただ、高城の面談の記憶だけで不安が消えたわけではない。

内定を受けてから入社までの二週間、翼はYouTubeで「人材紹介 実態」と検索した。動画は山ほど出てきた。元エージェントの暴露系。求職者が不満をぶちまける投稿。「スカウト二千件打て、と初日に言われた」「朝から晩まで架電。辞めたいと言ったら『お前の代わりはいくらでもいる』と」「結局、担当の持ってる案件にねじ込まれるだけ」「三ヶ月で辞めたら返金されるから、入社後もエージェントから『大丈夫ですか?』って圧の電話がくる」

コメント欄はもっと辛辣だった。「エージェントなんてクソ」「求職者のことなんか見てない」「数字しか見てないやつらに人生預けるな」。

画面を閉じた夜、高城の面談を思い出した。あの四十分は本物だったか。それとも、翼を口説くための営業だったのか。

答えは出なかった。出ないまま、四月一日の朝を迎えた。電車の中で、スマホの画面を見ないようにしていた。昨夜の動画のサムネイルが残っている気がした。


「——高橋。うちは行動量で殴る会社だ」

高城翔太が立ったまま言った。あの面談のときと同じグレーのポロシャツ。社長室も個室もない。フロアの奥に、他の社員と同じ島形のデスクがある。

「ただし考えろ」

三十秒で終わった。拍手もなければ、歓迎会の案内もない。高城は踵を返し、自分のデスクへ戻っていく。

翼はポロシャツの背中を見送りながら、口の中で言葉を反芻した。

行動量で殴れ。

それだけが、胸に残った。「ただし考えろ」の後半は、受話器を取り上げる手の勢いの中で、いつの間にか消えていた。動けばいい。動き続ければ、結果はついてくる。前職でもそうやって生き延びてきた。ここでも同じだ。YouTubeの動画は、うちの話じゃない。高城がいるなら大丈夫だ。

翼はモニターに向き直った。画面にはスカウト送信システムが立ち上がっていた。

求職者データベースから条件を絞り込み、一件ずつメールを飛ばす。返信が来れば電話をかけ、面談の日程を組む。面談で求職者の希望を聞き、合いそうな企業の求人を紹介する。企業との面接をセットし、選考を通過すれば成約——一件あたりの手数料は求職者の年収の三割。それが売上になる。

シンプルな仕事だった。動けば数字になる。翼の得意な形だった。


同じ島のデスク、向かい合わせの席に佐藤結衣がいた。

翼より半年先に入社している。髪を一つに束ね、紺のブラウスにグレーのスカート。二十六歳だと聞いていたが、デスクの上を見て、翼は少し驚いた。独特の秩序がある——左手にモニター、右手にノート、そしてパーティションの下半分を埋め尽くすカラフルなポストイット。黄色、ピンク、水色。小さな几帳面な文字で何かが書き込まれている。色分けにはルールがあるようだった。

翼はそれを見ても、何のためのものか考えなかった。

「よろしくお願いします」

結衣が微笑んだ。営業向きだな、と翼は思った。あの笑顔なら求職者は安心するだろう。

そのとき、結衣のデスクの電話が鳴った。結衣が受話器を取った瞬間、翼は空気が変わるのを感じた。

「——はい、佐藤です。……ええ、拝見しました。いまお話しできますか」

声のトーンが一段下がっていた。微笑みは消え、目が据わり、受話器を握る指が静かに定まった。面談の日程を提案しているようだったが、話し方が先ほどまでと全く違う。言葉を選ぶ間が長い。相手の言葉を最後まで待っている。

三分で通話を終え、結衣は受話器を置いた。メモを取り、ポストイットに何かを書き込み——翼に向き直ったときには、また先ほどの微笑みに戻っていた。

「何かわからないことがあったら、いつでも聞いてくださいね」

声は丁寧だった。けれど目が笑っていなかった——というほどでもない。ただ、さっき隣の女性の先輩と交わしていた笑顔とは、どこか温度が違う気がした。気のせいかもしれない。翼はそこに引っかからなかった。

翼は「ありがとうございます」と返しながら、微笑みの表面だけを見ていた。電話のあの三分間に何が起きたのか——確かめることはしなかった。

受話器を手に取る。一件目のコール。「初めまして、ネクスト・キャリアの高橋と申します」——テンプレートの挨拶が口をついて出る。モニター越しに、結衣のポストイットの群れが視界の端に入る。翼は目線を手元に戻した。


三週間が経った。

翼は誰よりも早く出社し、誰よりも遅くフロアを出た。一日五十件超のコール。通話が終われば受話器を置く間もなく次の番号を叩く。スカウトメールの返信率は12%を超えていた。十通に一通以上が返ってくる。面談も週十件のペースで組めている。翼はそれを自分の行動量の成果だと思っていた。

「最初のうちは返ってくるからね」と先輩が言った。翼は聞き流した。耳には入ったが、頭の中を素通りした。数字は出ている。それだけで十分だった。

手帳には付箋がはみ出している。「○○さんに電話」「△△面談15時」「□□企業に求人確認」。動けばいい。動き続ければ、数字はついてくる。

月末金曜日。ホワイトボードのKPIシートが更新された。

コール数の列。翼の欄だけが四桁に突入していた——1,247件。面談数22件。先輩たちの倍近い。視線が自然と横に流れ、結衣の欄を見た。コール数は翼の半分以下。面談数15件。

翼は目を戻した。半分のコール数で15件か、と一瞬だけ考えたが、すぐに自分の欄に目を戻した。22件の方が多い。それで十分だった。

「高橋さん、すごいですね。入社一ヶ月でこの数字、なかなか出ないですよ」

翼は振り返らず「まだまだっす」とだけ返した。口角がわずかに上がっていた。

やれる。ここでなら、やれる。


翼のスカウトメールの返信率が落ち始めたのは、月末の数字が発表される一週間前からだった。

12%あった返信が、8%になり、5%になった。月の後半に入ると3%を割った。三十三通送って一通。打っても打っても、画面に「未読」のまま残るメールが増えていく。

翼はコール数で補った。一日六十件。七十件。受話器を置く五秒の間に、次の番号を目で拾い、指で叩く。デスクの上のメモ帳が一冊目を使い切り、二冊目に入った。

面談は組めている。翼の面談数はチームでトップだ。だがその先が続かない。


「この求人なんですけど、年収帯が合ってると思って——」

面談開始三分。モニター越しに候補者の男性が映っている。翼は画面共有で求人票を表示しながら話し始めた。候補者がまだ自己紹介を終えたばかりだった。

「あ、すみません。その前に少し聞いてもいいですか」

候補者が口を開いた。翼は待てなかった。

「もちろんです。ただ、この求人は今週中に推薦を出さないと枠が埋まるんで、先にざっと——」

候補者の表情が微かに変わった。翼はそれに気づかなかった。翼の目はモニターに映る求人票の要件欄に向いていた。

面談は四十分で終わった。候補者は「考えます」と言った。翼は手応えを感じていた。要件は合っている。年収の条件もクリアしている。この案件は通る。

翌日。スマホに着信がなかった。翌々日も。三日目にフォローの電話を入れた。

「あ、高橋さん。すみません、他のエージェントさんで進めることにしました」

受話器を置いた。

また同じだった。話は聞いてくれる。条件も合う。しかし候補者は他社のコンサルタントを選ぶ。翼のファイルに「辞退」のスタンプがまた一つ増えた。次の候補者も同じだった。その次も。面談後に音信不通になるパターンが、月の後半に集中していた。

——タイミングの問題だ。たまたま他社と先に進んでいただけだ。もっとスカウトを打てばいい。もっと面談を組めば、そのうち一件は決まる。前職でもそうやって切り抜けてきた。


月末の金曜日。会議室にチーム全員が集まった。

プロジェクターの光が白い壁に四角い枠を作り、その中にチームの月間KPIが映し出された。高城が立ったまま、数字を読み上げていく。

「——コール数。高橋、1,247件」

先輩の一人が小さく口笛を吹いた。翼は背筋を伸ばした。

「面談数。高橋、22件」

全体を見渡しても、22件は突出していた。結衣は15件。翼の三分の二だ。

高城の声が一段落ちた。

「成約数」

会議室の空調が低く唸っていた。

「佐藤、四件」

結衣は小さく頷いただけだった。

「高橋——ゼロ」

空調の音が消えた。消えたのではない。翼の耳が止まったのだ。椅子の座面を握っている自分の手に気づいた。指先が冷たかった。

一瞬だけ、視線が結衣のほうに流れた。結衣はノートを閉じ、ペンをペンケースに戻していた。特別なことをした顔ではなかった。四件の成約を、日常のように処理している。

翼はすぐに目を逸らした。

——運が悪かっただけだ。量が質を凌駕する。ここでは、まだ数字が追いついていないだけだ。


ミーティングの後、全員がフロアに戻った。翼がデスクに座ろうとした時——

「高橋」

高城の声が背中にかかった。振り返ると、高城が顎でフロアの奥を指した。社長室のない社長のデスク。その横に、手書きのホワイトボードがあった。マーカーの色が三色。チームメンバーの名前と数字が並んでいる。

高城は座ったまま、翼を見上げた。腕を組んでいない。声も低くない。しかしその視線に圧があった。

「面談22件。成約ゼロ。何が起きてると思う」

「……タイミングの問題だと思います。候補者が他社と先に——」

「候補者のせいか」

翼の言葉が止まった。高城は腕を組んだ。

「お前の面談、何件か見た。スカウトメールの文面も見てる」

翼は知らなかった。高城が自分の面談を観察していたことを。

「お前は候補者の話を聞いてない。聞く前に提案してる。相手がまだ自己紹介してる段階で求人票を画面に出してるだろう」

反論しようとした。——聞いてる。ちゃんと聞いた上で、効率よく——

「スカウトの返信が落ちてるのは気づいてるか」

「……ここ二週間ほど、少し」

「少しじゃない。12%から3%だ。最初のうちは新しいプールだから返ってくる。そこから先は中身で勝負だ。お前のメールは全部同じ文面だろう」

翼は黙った。全部同じ文面だった。件名、冒頭、本文、すべてテンプレート。名前と求人名だけを差し替えていた。

高城がホワイトボードに目をやった。マーカーで書かれた翼の行——面談22、成約0——を指先でなぞった。

「——これ、何回目だ」

翼の喉が詰まった。

「前の会社でも同じことやったんだろ。数字は出した。壁にぶつかった。環境のせいにした。——何回目だ」

翼は答えなかった。答えられなかった。耳の奥が熱かった。拳が太腿の横で白くなっていた。

高城が翼に向き直った。

「佐伯って男がいる。うちの外部コーチだ」

「……コーチング、ですか」

高城は一度だけホワイトボードに目をやった。マーカーで書かれた翼の行——面談22、成約0。

「俺の知り合いに、転職を考えてる奴がいる。上場企業の事業部長クラスだ。個人的なツテで預かった案件でな、うちの看板じゃなくて俺の信用で繋がってる。——これを来月から、お前に独立で担当させるつもりでいた」

翼の背筋が伸びた。社長案件。個人のツテ。普通の新人に回す案件ではない。

「ただ、今のまま入れるつもりはない。佐伯に一回会ってから話を続けるか——それとも、今のやり方で一人でやり切るか。どっちでもいい」

翼の顔に、一瞬何かが走った。社長の個人案件。独立担当。しかし翼の口は速かった。

「……一人でやります」

声が硬かった。高城の視線は動かなかった。

「好きにしろ」

高城はモニターに目を戻した。翼はデスクの前に立ったまま、三秒間動かなかった。それから踵を返し、自分の席に戻った。

結衣が翼を見ていた。何か声をかけようとして——翼の表情を見て、口を閉じた。

翼はPCを開いた。画面にはスカウトメールの送信リストが並んでいた。翼はそれを見つめた。しかし、文字が頭に入ってこなかった。

——そのパターン、何回目だ。

高城の声が、頭の中で反響していた。


翼は自動販売機の前に立っていた。

缶コーヒーのボタンに指を置いたまま、押さないでいる。休憩室には誰もいない。昼休みの終わりかけ——他の社員はデスクに戻っている時間だ。

昨日の高城の言葉が、まだ頭の中にこびりついていた。

——そのパターン、何回目だ。

翼は缶コーヒーのボタンを押した。ガコン、と音がして、黒い缶が取り出し口に落ちてくる。冷たい表面を握る。

何が「パターン」だ。毎回、環境が違う。一社目は上司が話を聞かなかった。二社目はチームの空気が合わなかった。三社目は会社の方針と合わなかった。ここだって——返信率が下がったのは翼のせいじゃない。最初は来ていたものが来なくなっただけだ。候補者が他社を選んだだけだ。

翼はプルタブを開けた。コーヒーの苦味が喉を焼いた。


「あ、自販機あるんだ。助かった」

声が背後からした。振り向くと、知らない男が休憩室の入り口に立っていた。

四十代半ば。身長は翼と同じくらいか、少し低い。スーツではなくネイビーのジャケットにチノパン。靴はレザーのスニーカー。このオフィスの人間ではない。

顔つきに特徴がなかった。整っているわけでも崩れているわけでもない。目だけが印象に残る——穏やかで、何かを見通すような、それでいて何も押しつけない瞳。

男は翼の横を通り過ぎて自販機の前に立ち、ラベルを眺めた。「ホットはないか。残念」

翼は興味がなかった。缶を傾けてコーヒーを口に運ぶ。男がアイスコーヒーのボタンを押した。ガコン。同じ音。缶を取り出しながら、翼に視線を向けた。

「高橋さん?」

翼の眉が動いた。名前を知っている。

「高城さんに来てって言われて寄ったんだけど、ちょっと早く着いちゃって。佐伯です」

佐伯。昨日、高城が言った名前だ。コーチングの男。翼の背筋が硬くなった。

「——いらないって、言ったんですけど」

「聞いてる」

佐伯が笑った。目尻に細い皺が入る。上品な笑い方だった。

「コーチングしに来たわけじゃない。高城さんに呼ばれたから来ただけ。ここに自販機があるのはラッキーだった」

佐伯は近くのパイプ椅子に腰を下ろした。背もたれには寄りかからず、かといって前傾もしない。重心が定まっている座り方だった。缶のプルタブを開ける。翼は立ったまま缶を握っていた。座る気はなかった。


「転職、何回目?」

佐伯がコーヒーを一口飲みながら言った。唐突だった。しかしその声には高城のような圧がなかった。

「……三回目です」

「ということは、これが四社目か」

佐伯は頷いた。感心でも同情でもないトーンだった。ただ、聞いた。

「高城さんから何か聞いてるんですか」

「面談22件で成約ゼロ。スカウト返信率が急落。——僕に話してみろって高城さんが言って」

隠す気がない。翼は少し面食らった。

「その数字だと、焦りますよね」

佐伯の声は低いが柔らかかった。翼を急かす気配がない。

「焦ってません」

「そうですか」

沈黙。休憩室の蛍光灯がジジ、と微かに鳴った。

「前の会社でも数字は出してたんでしょう」

「出してました。行動量なら誰にも負けてなかった」

「辞めた理由は」

翼は答えようとした。口を開いた。いつもの言葉が舌の上にあった。

「……環境が合わなかった、ですかね」

「その前も?」

「一社目は上がクソだった。二社目はチームが合わなかった。——全部同じです。環境が合わなかった」

佐伯は缶を両手で包んでいた。翼の言葉を遮らなかった。相槌も打たなかった。ただ聞いている。その「聞いている」の密度が、翼の知るどの会話とも違った。

佐伯がコーヒーを一口飲んだ。缶をゆっくりとテーブルに置いた。

「毎回、相手が悪いということ?」

穏やかな声だった。笑みすらあった。

翼が固まった。

反論しようとした。「毎回じゃない」と。「今回は候補者のタイミングが——」

声が出なかった。

佐伯の問いは攻撃ではなかった。詰問でもなかった。ただの質問だった。それなのに翼の胸の奥の何かが、金縛りにあったように動かなくなった。

——毎回、相手が悪いということか。

高城に同じようなことを言われた時は、反射で跳ね返せた。しかし佐伯の声には跳ね返す壁がなかった。柔らかいまま、翼の内側に入ってきて、そこに留まった。


佐伯が立ち上がった。缶をゴミ箱に落とす。軽い金属音。

「まあ、気が向いたら連絡ください」

ジャケットの内ポケットから名刺を一枚出し、自販機の横のテーブルに置いた。

「無理にどうこうする気はないので」

佐伯は軽く手を挙げて、休憩室を出ていった。歩幅は広くも狭くもなく、足音は静かだった。

翼は立ち尽くしていた。

手の中の缶コーヒーは、ぬるくなっていた。アルミの表面に翼の指の跡がへこんでいる。いつ力を入れたのか、覚えていなかった。

自販機の横のテーブルに置かれた名刺を見た。白い紙に黒い文字。

「佐伯零一」

肩書きはなかった。会社名もなかった。名前と、電話番号と、メールアドレスだけ。

翼は名刺を手に取った。取ったことに自分で驚いた。

——別に。捨てるために取っただけだ。

翼はスーツのポケットに名刺を滑り込ませた。

捨てなかった。


靴を脱がなかった。

翼は一人暮らしの1Kのドアを閉め、そのままベッドに倒れ込んだ。革靴の底がシーツに触れる感触が、かすかに罪悪感を運んできたが、体を起こすだけの気力がなかった。腕が重い。足が重い。一日分の疲労が、横になった瞬間にまとめて落ちてきた。

天井が暗い。電気をつけていない。窓の外の街灯の光が、レースのカーテン越しに天井の染みを薄く浮かび上がらせていた。水漏れの跡なのか、入居した時から変わらない楕円形。

部屋の空気はこもっている。朝出たまま。シンクの食器、干しっぱなしの洗濯物。翼は天井の染みを見つめたまま、長い息を吐いた。

スマホが震えた。

ポケットの中で、短い振動が一回。画面の光が天井を青白く照らした。翼は片手でスマホを引き抜き、横になったまま顔の上に掲げた。通知バーにLINEのアイコン。美咲からだった。

水色の吹き出しの中に、簡潔な文字が並んでいる。

「今日どうだった?」

翼は親指を動かした。

「まあまあ」

送信。すぐに既読がついた。数秒後、返信。

「ごはん食べた?」

「さっき食べた」

嘘だった。食べていない。カフェでコーヒーを一杯飲んだだけだ。けれど「食べてない」と送ると心配される。心配されると説明しなければならない。説明する気力がなかった。

「よかった🥰 無理しないでね」

美咲のメッセージの末尾に、ハートの目をした絵文字がついていた。

すぐに既読がついた。数秒後、もう一通。

「ちょっと声聞きたいな。電話する?」

翼は画面を見つめた。親指が通話ボタンの上に置かれかけて、止まった。

「明日でいい」

「わかった! おやすみ☕」

翼はスタンプを一つ返した。犬が手を振っているやつ。いつもの返し。それで会話が閉じた。

佐伯のことは話さなかった。月末の数字のことも、結衣に負けていることも。成約ゼロという事実も、高城に「何回目だ」と言われたことも、休憩室で佐伯に棘を刺されたことも——何一つ、美咲には届けなかった。

心配させたくない、のとは少し違う。

話しても——という諦めの形をした壁が、スマホの画面一枚の奥にある。話したところで、返ってくるのは「がんばれ」と「大丈夫だよ」だろう。分かっているから、最初から話さない。

スマホの画面が暗転した。部屋が再び闇に戻る。翼はスマホをシーツの上に投げた。


投げたスマホの画面が一瞬光って、また沈んだ。

その一瞬に、赤いバッジが見えた。通話アプリのアイコンの右上に、小さな赤い丸。

翼はスマホを拾い直した。画面をタップし、通話アプリを開く。青い画面に白い文字が並んでいる。着信履歴。不在着信一件。

「高橋誠一郎」

指が止まった。

天井の染みを見ていた目が、スマホの画面に固定される。父の名前。三文字。登録した時の漢字がそのまま表示されている。連絡先を消していないのは、消すという行為をする気力すらなかったからだ。

〇・五秒。

左にスワイプした。赤い「削除」のボタンが現れ、もう一度タップする。着信履歴が画面から消えた。既読にもしない。折り返しもしない。指の動きは手慣れていた。何度目か分からない。ここ数年、父からの着信にはいつもこうしてきた。

スマホの画面を下に向けて、シーツの上に置いた。

天井の染みを見ている。街灯の光がカーテン越しに差し込み、楕円形のシミの輪郭を浮かべている。

不意に、匂いがよみがえった。

グラウンドの、土の匂い。雨上がりの黒い土が、スパイクの溝に挟まって乾いていく匂い。試合後のベンチの金属が、汗で冷えた太ももの裏に張りついていた。冷たかった。春先の夕暮れ。ユニフォームの襟に染みた汗が、風に冷やされて首筋を刺す。

チームメイトの誰かが泣いている声が聞こえる。遠くで。翼はベンチに座ったまま、観客席を見上げた。保護者たちが散っていく。手を振る親、子供を抱き上げる父親。翼はその中に一人の姿を探していた。

空席。

いつもと同じ、空席だった。

翼は寝返りを打った。体を横にし、膝を折り、布団を頭まで引き上げた。暗闇と布の肌触りだけが世界になる。セピアがかった映像——グラウンドの土、ベンチの金属、空の観客席——が、布の向こう側に追いやられていく。

遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。音が近づき、通り過ぎ、遠ざかっていく。窓の外の街はまだ動いている。翼の世界だけが、布団の内側に閉じていた。

暗闇の中に、一つだけ、声が残った。

——毎回、相手が悪いということか。

佐伯の声だった。低く、穏やかで、尖っていない声。父の声とは違った。高城の声とも違った。前職の上司の声とも。翼はその違いが何なのかを言葉にできないまま、佐伯の声だけを暗闇の中に残して、目を閉じた。


マンションの廊下は薄暗かった。

共用廊下の照明は一つおきに点いている。省エネのためだと管理組合の掲示板に書いてあった気がするが、いつそれを読んだのか思い出せない。鍵を回す手が少しだけ重い。一日中PCとスマホと人の声と向き合い続けた指先が、金属の冷たさを鈍く感じている。

玄関に靴が二足分並んでいた。蓮の黒いナイキと、結衣の白いコンバース。合鍵を渡したのは半年前だ。

ドアが開いた瞬間、ガーリックオイルの香りが鼻先に流れ込んできた。

——ああ、温かい。

廊下の先、リビングのキッチンからオレンジ色の光が漏れている。白い壁にその光が反射して、1LDKの狭い空間がほのかに色づいていた。換気扇の低い唸りと、フライパンの上で何かが焦げる小さな音。

結衣はヒールに手をかけ、一足ずつ脱いだ。左足、右足。足裏がフローリングに触れた瞬間、ふくらはぎの奥に一日分溜まっていた重さが少しだけ解けた。ストッキング越しの床の冷たさが、かえって心地いい。

「おかえり」

低く、安定した声。蓮がキッチンに立っていた。三十歳。不動産営業。結衣より四つ年上で、付き合って三年になる。紺色のリネンのエプロンを締め、袖を肘までまくり上げている。テーブルにはペペロンチーノと小さなグリーンサラダが並び、ワイングラスが二つ、赤い液面を静かに揺らしていた。テーブルの端に置かれたティーライトキャンドルが、小さなオレンジの炎を灯している。

蓮はフライパンを火口から下ろし、トングを置き場にかけてからこちらを振り返った。笑顔だった。穏やかで、余裕のある笑顔。

「ただいま」

結衣はダイニングチェアに腰を下ろした。椅子の座面が体重を受け止めた瞬間、肩と首の力が抜けていくのが分かった。蓮がグラスを差し出す。指先がワイングラスのステムに触れた。細くて頼りない——でも、その頼りなさの中に、今日一日のどこにもなかった静けさがあった。


「仕事、どうだった?」

蓮がフォークを手に取りながら訊いた。声のトーンは低く、安定している。問い詰めるのでもなく、義務的に聞いているのでもなく——「聞きたいから聞いている」という温度がそこにあった。

「うん、今月も……まあまあだったかな。成約四件」

四件。インセンティブの額が頭の中で回った。嬉しさより先に、計算が走る。いつからそうだったのか、結衣自身にもわからない。でも——これで今月は大丈夫だ、という安堵のほうが、いつも先に来た。

「四件? すごいな。お前はほんとすごいよ」

蓮の目が柔らかく笑っていた。結衣が話す時、蓮はフォークを皿の上に置いた。パスタが冷めることを気にしていない。その所作が、結衣の胸の中で何かを温めていた。

「来月はもっと増やせると思うんだけど、案件の質がもう少し上がれば……」

「うん、うん」

蓮が頷く。相槌のタイミングが自然で、結衣の言葉を遮らない。その「待ち」が、結衣にとっては何よりの承認だった。

テーブル越しに、蓮の手が結衣の左手にほんの一瞬触れた。指先だけの、軽い接触。その温もりが、手の甲から腕のほうまでじんわり伝わっていく。蓮の右手にはフォークがあり、左手だけが結衣の方に伸びてきた——その手の大きさが、結衣を安心させた。

——私が頑張れるのは、この人がいるから。

ワインを一口含んだ。体の力が少しずつ抜けている。

——私が甘えてるだけかもしれない。でも、この人の前では甘えてもいい気がする。

ペペロンチーノの唐辛子がピリッと舌を刺した。ガーリックの香りの奥に、蓮の柔軟剤の匂いがかすかに混ざっている。


「そういえば——」

結衣はフォークでパスタを巻きながら、思い出したように言った。何気なかった。仕事の報告の延長だった。

「最近入った新人の高橋さん、すごい行動量で」

蓮のフォークが、パスタの上でごく僅かに止まった。

一秒もなかったかもしれない。フォークのステンレスが皿の白い縁に触れかけて、途中で止まった。それから何事もなかったように、またパスタを巻き始めた。

口元の筋肉がわずかに緊張した。ティーライトキャンドルの炎が、窓のカーテンの隙間から忍び込んだ夜風にちいさく揺れた。

「ふーん、その翼って人、どんな人?」

声のトーンが平坦になっていた。さっきまでの柔らかさが、薄い膜一枚分だけ剥がれたような。でも、気のせいかもしれない。蓮はパスタをフォークに巻き取りながら結衣を見ている。目の奥に、さっきまでとは違う何かが浮かんでいるようにも見えるし、キャンドルの光の加減かもしれない。

——あれ、私「高橋さん」って言ったのに。

その疑問は、結衣の意識の表面を一瞬かすめて、沈んでいった。波の頂点に顔を出して、すぐにまた水面下に潜る小石のように。結衣はそれを追わなかった。追う理由がなかった。

「まだよく知らないけど、エネルギーがすごいなって。コール数がもう四桁で。私の倍くらい動いてる」

「そうか」

蓮がパスタを口に運び、ワインを一口含んでからこちらを見た。笑顔が戻っていた。さっきと同じ——穏やかで、余裕のある笑顔。

「お前のほうがすごいけどな。結衣が結果出してるのは、行動量だけの話じゃないだろ」

——蓮は優しい。少し心配性なだけだ。

結衣はそう思った。そう結論づけた。他の可能性は検討しなかった。蓮が下の名前を拾ったことも、声のトーンの変化も、フォークが止まった一瞬も——すべてが、その結論の前に消えていった。

結衣は笑って話題を変えた。来週の予定の話。週末に行きたいカフェの話。新しくできたイタリアンの話。蓮の声が元の柔らかさに戻り、テーブルの上のキャンドルの炎が安定した光を取り戻して、それだけで結衣には十分だった。

窓の外で、通りを走る車のヘッドライトがカーテンの隙間を横切った。光の筋が壁を滑り、消えた。

グラスの中のワインが、二人の声に合わせるように、ゆっくりと揺れていた。