エピローグ
デスクランプのオレンジ色の光が、キーボードの上に長い影を落としていた。
その影の端を、カーテンの隙間から忍び込む光が侵食している。午前五時を過ぎた頃だろうか。佐伯零一は時計を見なかった。窓の外の空がどれだけ白んでいるかで、時刻はおおよそ分かる。
ノートPCの画面には、原稿ファイルの最後の一行が映っていた。
佐伯はその一行を見つめていた。椅子の背もたれに体を預けたまま、長い息をついた。
四週間。あの夜——翼のマンションを出た翌朝から書き始めて、四週間。毎朝この書斎に座り、キーボードを叩いた。翼の物語を。自分の物語を。書き終えた、という感覚はなかった。ただ——書くべきことは、全て書いた。
傍らのマグカップから湯気が立っていた。つい先ほど淹れたばかりの温かいコーヒー。一口飲んだ。苦い。しかし——温かかった。
カーテンの隙間から入る光は——紺色ではなかった。白かった。冬が明けた光だった。
佐伯は原稿ファイルに目を落とした。「失敗者の告白」。佐伯はファイルをPDFに変換した。白い画面の上で、進捗バーが静かに伸びていく。
エクスポートが終わった。佐伯はメッセンジャーを開いた。連絡先の中から——「黒沢大輔」を選んだ。最後のやり取りは、もう一年以上前だった。
PDFを添付した。メッセージ欄に、カーソルが点滅している。
佐伯の指が止まった。何を書くか。何千字も書ける。何も書かなくてもいい。
佐伯は一行だけ打った。
「読んでくれ」
送信した。既読はつかなかった。朝の五時だ。つかなくていい。
スマートフォンが振動した。
母。
「零一。今日はお父さんの命日よ。空から見守ってくれてるから、たまにはお祈りでもしなさい」
佐伯は——ふ、と息を漏らした。
忘れていた。命日を、忘れていた。原稿を書いていて、会社を作ろうとしていて——父のことを何千字も書いたのに、当の命日を忘れていた。
「空から見守ってくれてる」。家の中から父の痕跡を消したあの母が——「お祈りでもしなさい」と息子に送ってくる。
佐伯は母のメッセージに返信した。黒沢に送ったPDFをそのまま添付して、一行だけ添えた。
「親父のこと、書いてみた。よかったら読んでみて。急がないから」
佐伯はスマートフォンを置いた。
佐伯はデスクの横に目をやった。白い紙が一枚。法人設立届出書。佐伯の三社目の会社。一社目、二社目を経た——三度目の選択。原稿を書きながら、佐伯は次にやることを決めていた。今日、届け出を出しにいく。
佐伯は書類を手に取り、鞄に入れた。
書斎の電気を消した。デスクランプが消え、PCの画面だけがうっすら光っている。カーソルが点滅していた。
佐伯は鞄を手に取った。書斎を出た。廊下。玄関。靴を履いた。
ドアノブに手をかけた。金属が冷たかった。——しかしもう冬の冷たさではなかった。
ドアを開けた。頬に触れる風が柔らかかった。光が——白く、温かかった。
佐伯が一歩、外に踏み出した。
外は、春だった。