第十一章「手中の鳥」
涼太のスマートフォンの発信履歴には、同じ名前が並んでいた。
高橋翼。高橋翼。高橋翼。高橋翼。高橋翼。
五回。全て通話時間〇分〇秒。コール音が鳴り、留守番電話に切り替わり、涼太は何も残さずに切った。六回目はそもそも繋がらなかった。電源が切れている——涼太はそれを三日前から知っていた。
WINGSのレンタルオフィスはすでに解約していた。残務処理——クライアントへの終了通知、税理士への書類送付、備品の処分——は涼太が一人でこなした。翼に確認を取る手段がなかった。涼太は自分のアパートのデスクで、ノートPCに向かいながら翼に電話をかけ続けた。
翼が暴走した時、止められなかった。「分けたほうが」と言った。翼が遮った。涼太は——黙った。黙って従った。パートナーとして隣にいたのに。涼太の中で佐伯の声が聞こえていた——「データを持っている人間には、データを持っている人間の責任がある」。
罪悪感が涼太の胸の底に沈んでいた。重くて、冷たくて、動かなかった。毎朝起きると最初に翼の名前を発信履歴で見た。繋がらないと知りながら、それでもかけた。
涼太は連絡先を下にスクロールした。「さ」行。佐藤結衣。
電話をかけた。
三回のコール。結衣が出た。
「中村さん?」
結衣の声には驚きがあった。翼のチームにいた時以来、涼太と電話したことはなかった。
「佐藤さん、高橋さんが連絡つかないんです」
涼太の声は落ち着いていた。しかし語尾が僅かに揺れた。
「会社も畳んで、美咲さんも……。僕が何回連絡しても出ないんです」
結衣のデスクで——マネージャー用のやや大きめのデスクで——スマートフォンに涼太の名前が表示されていた。結衣は報告書を書く手を止めて出ていた。
五秒の沈黙。
結衣は蓮には相談しなかった。以前なら真っ先に「どうしよう」と聞いていた。今は——聞こうとも思わなかった。結衣は自分で考え、自分で判断しようとしていた。
「……わかりました。沙織ちゃんにも連絡、取っていいですか」
涼太は少し間を置いた。声が微かに和らいだ。
「……お願いします」
電話を切った後、結衣はスマートフォンでメッセージアプリを開いた。沙織の名前を選んだ。
「明日、3人で会えない?高橋さんのこと」
感嘆符も絵文字もなかった。必要な言葉だけ。
沙織から一分後に返信が来た。「はい。場所教えてください」。
翌日。駅前のカフェ。
涼太が先に来ていた。窓際のテーブル。四人掛けの席に一人で座って、アイスコーヒーを前にしていた。ストローの袋が折られてテーブルの端に置いてあった。涼太の目の下にくまがあった。
結衣が来た。コートを脱いで椅子にかけた。蓮がいた頃なら、蓮が先に椅子を引いていた。今は自分で椅子を引いた。沙織が少し遅れて来た。小走りだった。「すみません」——小さな声だったが、聞こえた。三人がテーブルに着いた。涼太の向かいに結衣。結衣の隣に沙織。翼がいた時のチームMTGに似た配置だった。翼の席だけが——空いていた。
「状況を話します」
涼太が言った。資料は出さなかった。データも数字も並べなかった。以前データの人間だった涼太が——ここでは言葉だけで語った。
WINGSの経緯。市場が変わったこと。翼が撤退を拒否したこと。涼太の進言を翼が遮り続けたこと。資金が尽きたこと。翼が「すまなかった」と言ったこと。
涼太の声が僅かに低くなった。
「美咲さんが家を出ました。手紙を残して。それから高橋さんは——スマートフォンの電源を切って、誰とも連絡を取っていません」
沙織はコーヒーカップを両手で包んだまま、黙って聞いていた。涼太が美咲の離脱を話した時、沙織の指がカップを強く包んだ。しかし声は出さなかった。
結衣は翼と同じチームにいた時のことを思い出していた。
週次MTGで翼が涼太をフォローしていた場面。涼太がデータの解釈を間違えた時、翼が「お前の視点は合ってる。切り口を変えてみろ」と言った時の涼太の顔。涼太の肩が少し上がった。翼に「合ってる」と言われた涼太の目。あの目のハイライトを——結衣は覚えていた。
あの場にいた翼は——チームのために動いていた。指示は的確だった。チームは機能した。結衣自身も変わった。「はい」しか言えなかった結衣が、翼のチームで「すみません、ただ」と言えるようになった。
——その翼が今、誰とも話せない場所にいる。
涼太はコーヒーのストローを回した。氷が音を立てた。
「僕たちだけでは、高橋さんの一番深いところには届かないと思います」
涼太が言った。声は落ち着いていた。
三人の視線が交わった。
カフェのBGMが一瞬遠のいた。
結衣が口を開いた。
「佐伯さん、ですよね」
沙織が——小さくうなずいた。以前声を出すこと自体が難しかった沙織が、自分の意思でうなずいた。「はい」ではなかった。声は出さなかった。しかし首の動きは明確だった。
涼太が息を吐いた。「……ああ。佐伯さんしかいない」
涼太がスマートフォンを取り出した。連絡先をスクロールした。佐伯零一。翼がチームにコーチとして呼んだ人。翼を根本から変えた人。翼が——自分では連絡できなかった人。涼太は佐伯と直接やりとりしたことが数回しかなかった。WINGS創業時に一度、翼の紹介で佐伯に挨拶した。佐伯は涼太の手を握り、「翼を頼む」と言った。短い言葉だった。しかしその手の強さを——涼太は覚えていた。
涼太が発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴った。一回。涼太の指がテーブルの縁を叩いた。二回。結衣が涼太を見ていた。三回。
「涼太くん?」
佐伯の声が静かに響いた。平静だった。しかしその平静の奥に——涼太の声だけで何かを察する鋭さがあった。佐伯も気づいているのだろう——翼から連絡が途絶えていることに。
涼太は一呼吸置いた。テーブルの向かいの結衣と沙織を見た。結衣がうなずいた。沙織がうなずいた。カフェの環境音が——三人の沈黙を包んでいた。
「佐伯さん、高橋さんのことで——」
涼太の声は揺れなかった。今度は揺れなかった。
涼太からの電話を受けた日、佐伯零一はすぐには動かなかった。
電話を切り、スマートフォンをデスクに置き、自宅のリビングの窓の外を見た。十二月の午後。曇り。街路樹は冬の枝のまま——葉は全て落ちていた。佐伯は窓際に立ったまま、何分かそうしていた。
翼が自分で立ち上がることを——佐伯はまだ信じていた。翼が電源を切ったスマートフォンを、自分でオンにすること。自分から連絡してくること。佐伯はそれを待った。一日。
翌日の午前、涼太から再度連絡が来た。短いメッセージ。「まだ出ません」。
佐伯はPCの画面を閉じた。立ち上がった。書斎のデスクから便箋を一枚取った。白い便箋。何も書かなかった。折りたたんで鞄に入れた。佐伯自身がまだ翼に伝えるべき言葉を持っていなかった。——持っていないまま翼の前に立つ覚悟だけがあった。
コートを着た。スーツではなかった。カジュアルなジャケットにデニム。
スマートフォンのメモアプリを開いた。翼のマンション名と部屋番号。翼が佐伯に住所を教えたのは一度だけ——あの食事会の帰りに「近くまで来たら寄ってください」と社交辞令で言った時。佐伯はその社交辞令を覚えていた。
コートのボタンを一つずつ留めた。ゆっくりと。丁寧に。
マンションのエントランスはオートロックだった。
佐伯がインターホンを押した。部屋番号を入力し、呼び出しボタン。電子音が鳴った。
応答なし。
佐伯は五秒待った。エントランスのガラス越しにマンションのロビーが見えた。郵便受けの列。管理人室は不在。佐伯の背後を住人が通りすぎた。
もう一度。呼び出しボタン。電子音。
応答なし。
佐伯はインターホンのマイクに顔を近づけた。
「翼。佐伯だ」
声は穏やかだった。しかしマイクの向こうは沈黙だった。翼がインターホンの前に来ているのか、部屋の奥にいるのか、佐伯にはわからなかった。
佐伯はエントランスの壁に背を預けた。スマートフォンを出した。メッセージアプリを開き、翼の名前を選んだ。翼の最後のメッセージはWINGS創業直後の「どうですか」だった。その後は空白。佐伯が返した「翼こそどうなんだ」は既読のまま放置されていた。佐伯はその「既読」のマークを見つめた。翼が読んだことは確かだ。読んだ上で——返さなかった。
佐伯はメッセージを打った。
「外にいる。出てこなくていい。聞こえてるなら、鍵だけ開けてくれ」
送信。既読にはならなかった。翼のスマートフォンは電源が切れているのか——それとも見ているのに反応しないのか。佐伯にはわからなかった。
佐伯は壁にもたれたまま待った。
一分。エントランスの自動ドアが開き、買い物帰りの住人が通った。佐伯を不審に見たかもしれない。佐伯は気にしなかった。
二分。街路の車の音が聞こえた。佐伯はスマートフォンの画面を見なかった。
三分。佐伯は壁にもたれたまま、ゆっくりと座り込んだ。両膝を曲げ、壁に背中をつけたまま、エントランスの床に座った。翼が出てくるまで——あるいは出てこなくても——ここにいるつもりだった。
四分。佐伯の視線はエントランスのガラスの向こうに向いていた。郵便受けの並び。部屋番号がラベルされている。翼の部屋番号のラベルには——まだ「高橋」の表札が貼ってあった。
五分。
カチャリ。
オートロックが解除された。小さな電子音。佐伯は顔を上げた。翼はメッセージを見た。電源を入れたのか、初めから入っていたのかはわからない。しかし五分かけて——鍵を開けた。
佐伯は立ち上がった。膝を伸ばし、コートの埃を払い、エントランスのドアを開けた。
翼のマンションのドアは閉まっていた。しかし施錠はされていなかった。佐伯はドアノブを回し、静かに開いた。
「失礼する」
靴を脱いだ。廊下は暗かった。リビングに入った。
カーテンは閉まったままだった。 あの日から変わっていない。シンクに食器——三枚からさらに増えていた。五枚、六枚。積まれ方が乱雑だった。テーブルの上に美咲の手紙の封筒と鍵。その横に電源の入ったスマートフォン——佐伯のメッセージが画面に表示されていた。翼は読んでいた。
翼はリビングの端にいた。ソファの隅。膝を抱えていた。佐伯を見なかった。
部屋の空気が淀んでいた。何日も換気されていない空気。佐伯の鼻がそれを感じた。しかし佐伯の表情は変わらなかった。動揺を見せなかった。荒れた部屋を見ても、痩せた翼を見ても、佐伯は顔色を変えなかった。
佐伯は翼の隣には行かなかった。距離を詰めなかった。
「……来るなって言ったのに」
翼の声がかすれていた。何日も使っていない声帯が出す音だった。
佐伯はリビングの入り口に立ったまま答えた。
「言ってないだろ。無視してただけだ」
声は穏やかだった。
翼の口角が——わずかに動いた。笑いではなかった。佐伯はその動きを見逃さなかった。しかし何も言わなかった。
佐伯はキッチンに立った。
キッチンの状態を見た。コーヒーメーカーが棚にあった。佐伯はそれを使わなかった。シンクの横にインスタントコーヒーの瓶があった。佐伯はそれを手に取った。
ケトルに水を入れた。ガスコンロに置いた。火をつけた。青い炎が広がった。
カップを棚から出した。二つ。同じ白い無地のカップ。翼と美咲が使っていたカップだろう。美咲が出ていってもカップは二つ残っていた。佐伯はそれを確認し、何も言わず、二つ並べてカウンターに置いた。
お湯が沸くまでの時間。ケトルの底から小さな泡が立ち始めた。佐伯は待った。翼はソファの隅から佐伯の背中を見ていた——見ているのか見ていないのか、佐伯にはわからなかった。
泡が大きくなった。沸騰した。ケトルが微かに鳴った。佐伯は火を止めた。
コーヒーの粉をスプーンで掬い、カップに入れた。粉がカップの底に落ちる乾いた音。お湯を注いだ。静かに、細く。湯気が立ち上った。カーテンの隙間から入る僅かな光に——湯気が白く照らされた。
閉め切った部屋に——コーヒーの香りが広がった。何日も人の気配を失っていた空間に、温かいものの匂いが入ってきた。
佐伯は二つのカップを持ってリビングに戻った。一つを翼の前のテーブルに置いた。もう一つを——テーブルの反対側、翼の対面に。佐伯はそこに座った。翼の正面ではなく、やや斜め。圧迫しない配置。
「涼太くんたちが、心配してた」
佐伯は言った。声は静かだった。
翼は黙っていた。
「話したくないなら話さなくていい。ただ、コーヒーだけは飲め。まずいけど」
翼はカップを見た。白いカップの中で黒い液体が微かに揺れていた。湯気が少し減っている。翼はゆっくりと手を伸ばした。
指先がカップの縁に触れた。
——その手が震えていた。
翼自身がその震えに気づいた。何日も人と話していない。何日も温かいものに触れていない。指先から掌へ、カップの温度が伝わった。温かかった。翼の手は冷えていた。温度の差が——翼の身体に「生きている」ことを伝えた。
翼はカップを持ち上げた。口に運んだ。一口飲んだ。
まずくはなかった。でも味がよくわからなかった。味覚が鈍っていた。何日もまともに食べていない身体が——味を受け取る余裕を失っていた。喉を通る温かさだけが——確かだった。
翼の目が——初めて少しだけ佐伯を見た。佐伯の顔ではなく、佐伯の手元のコーヒーカップを。同じ白いカップ。同じコーヒー。佐伯もカップに口をつけていた。
二人のカップが同じテーブルの上にあった。
コーヒーを一口飲んだ翼が、ぽつりと口を開いた。
声がかすれていた。何日も使っていなかった声帯が軋む音がした。
「……市場が変わって」
佐伯は斜め向かいのソファに座っている。カップを手に、翼を見ている。見ているが——じっとではなく、柔らかく。
「資金が尽きて。クライアントが離れて。競合が——月額九百八十円で俺たちのサービスの八割を代替して」
「涼太にも——あいつの貯金から出させた。止めろって言ってたのに聞かなかった。涼太がデータ出してきた時、俺は……遮った。何回も遮った」
声量は変わらなかった。しかし語尾が少し落ちた。
「美咲も出ていった」
佐伯は黙っていた。コーヒーカップを両手で包んでいた。うなずくことすらしなかった。ただ——聴いていた。
翼の語りは二分ほど続いた。残存キャッシュの推移。クライアント離脱の時系列。涼太が作ったスプレッドシートの数字を——翼は記憶から辿った。百二十万。四十五万。三十万以下。十二万。数字が小さくなるたびに、翼の声もわずかに小さくなった。しかし語りは止まらなかった。
語りながら翼の視線はカップの上を漂っていた。佐伯を見ていなかった。
語りが止まった。
五秒の沈黙。
コーヒーの残り香が微かに漂っていた。もう湯気は出ていなかった。
翼が言った。
「——俺が話したいのは、そのことじゃない」
佐伯の指がカップの縁で止まった。
「……俺、サッカーやってたんですよ。高校の時」
静かな声だった。事業の説明とはまったく違うトーン。子供の頃の記憶を辿る声。
佐伯は「うん」とだけ言った。低く、短く。
翼の記憶が開いた。
グラウンドの土。茶色い、乾いた土。真夏の練習で埃が立つ。スパイクの鳩目を通りすぎる砂の粒子。翼は三年間そのグラウンドにいた。朝練で走り、放課後で走り、土日も走った。
「好きだった。でも……中途半端だった」
翼の声が少しだけ柔らかくなった。
「レギュラーじゃなかった。ベンチで試合見てた。スタメンの背中を見てた。あいつらが走るのを……ベンチの鉄の冷たい縁に手を置いて、見てた」
ベンチの鉄の冷たさ。あの感触を——翼は十五年以上経った今でも覚えていた。金属の縁に添えた指。試合中のホイッスル。応援する声を出す翼。
「最後の大会、スタメンで出してもらえて」
翼の声が変わった。抑制が入った。語りたくない記憶に近づいている声だった。
「でもミスした。ディフェンスラインでのパスミス。相手のフォワードが拾って——失点した。チームが負けた。最後の大会が——俺のミスで終わった」
佐伯は黙っている。カップも口に運ばない。翼の語りだけが部屋の中にあった。
「帰りの車で、父親が——何も言わなかった」
翼の声がさらに低くなった。
「『ドンマイ』も言わなかった。『次がある』とも。ただ車の中で黙って運転してた」
フラッシュバック——試合後の車内。父と翼が前のシートに並んで座っている。窓の外は夕暮れ。オレンジ色の光が車のダッシュボードに当たっている。ラジオは切れている。父の手がハンドルを握っている。太い指。黙っている顔の横顔。翼は助手席で——汗が冷えたユニフォームを着たまま座っていた。父に何か言ってほしかった。「ドンマイ」でもいい。「下手くそ」でもいい。何か。何でもいい。——何も来なかった。
「ずっと恨んでた」
翼の声が変わった。怒りの音が混じった。声量は上がらなかった。しかし語尾が強くなった。
「なんで何も言わないんだって。見てたんなら何か言えよって。俺がミスしたの見てたんだろ。チームが負けたの見てたんだろ」
佐伯は何も言わなかった。
「試合の後だけじゃない。ずっとそうだった。小学校の運動会で一等になっても何も言わなかった。成績が上がっても何も言わなかった。通信簿を食卓に置いても、父親は一度も開かなかった。受験に受かっても何も言わなかった。就職しても何も言わなかった。転職しても。チームを任されても。起業しても——何も」
翼の声が僅かに震えた。
「母親は——母親なりに何か言ってくれた。『おめでとう』とか。『頑張ったね』とか。でも父親は——壁みたいに黙ってた。俺は……壁に話しかけてる気分だった。何を見せても反応がない。何をやっても反応がない」
翼の呼吸が少し浅くなっていた。
あの実家で母の涙を見た。母が「お父さんも最初はそうだった」と言った。翼は「俺は父親とは違う」と思った。あの時サッカーのフラッシュバックが来た。あの食事会で父の手を見つめた。しかしどの場面でも——翼は「語って」いなかった。記憶として浮かんだだけだった。今初めて——翼は自分の声で、父のことを語っていた。
翼はソファの隅で少し姿勢を変えた。膝を抱えていた体が——ほんの僅かだけ開いた。
「でも……」
怒りがゆっくりと降りた。声のトーンが変わった。
「今の俺なら、わかる。何も言えない、ってのが」
翼の目がカップから離れた。窓のカーテンの隙間を見ていた。カーテンの隙間から入る光——午後の光だった。暖色。車の窓から見た夕暮れと——同じ色だった。
「美咲にも涼太にも、何も言えなかった。美咲が出ていく前——俺は何も言えなかった。涼太が『分けたほうが』って言った時も、俺は……本当は分けたほうがいいと思ってた。でも言えなかった。認めたくなかった」
佐伯の目がわずかに動いた。
「親父も……わからなかったんだ。何を言えばいいか」
翼の声が静かになった。
翼は一度目を閉じた。父の車の中の記憶が浮かんだ。夕暮れのダッシュボード。父のハンドルを握る手。あの手は——握りしめられていたのかもしれない。翼は助手席から父の手を見ていなかった。父の横顔だけを見ていた。もし手を見ていたら——父の指が白くなっていることに気づいたかもしれない。翼の膝の上の白い指と——同じだったかもしれない。
佐伯が——初めて能動的に言葉を発した。
「翼が決めることだ、って——あの時、言ったな」
翼の目がわずかに動いた。佐伯が翼に初めて言った言葉。翼のキャリアの分岐点で、佐伯が「答え」を渡さずに翼に返した言葉。
「……ああ。あの言葉、ずっと引っかかってた」
翼は佐伯を見た。今回は——佐伯のカップではなく、佐伯の目を見た。佐伯の目は穏やかだった。しかしその奥に——何かが動いていた。翼がここまで語ったことを受け止めている人間の目だった。
「佐伯さんがあの時『翼が決めることだ』って言った時——俺は突き放されたと思った。答えをくれないんだ、って。でも違った。佐伯さんは——俺が自分で答えに辿り着くのを待ってた」
翼の声が少し柔らかくなった。
「親父の沈黙と、佐伯さんの沈黙は……違った」
あの食事会を思い出していた。父と佐伯が初めて同じ空間にいた夜。
「親父は言えなかった。佐伯さんは——待ってた」
佐伯の目がわずかに揺れた。佐伯のコーヒーカップはもう空だった。しかし佐伯はカップをテーブルに置いたまま、翼から目を離さなかった。
翼の目から涙がこぼれた。
静かだった。声は出なかった。頬を一筋の涙が伝った。翼はそれを拭わなかった。
「俺は……勝てる場所でしか戦えなかった」
声が震えていた。しかし止まらなかった。
「サッカーも。レギュラーじゃなかった。でもベンチにいることはできた。仕事も。佐伯さんに教えてもらって成果を出せた。でも——勝てる範囲でしかやらなかった」
翼の呼吸が浅くなった。しかし言葉は続いた。
「起業も。AI×組織開発って——それは俺が勝てると思った場所だった。佐伯さんから学んだことをパッケージにして、テクノロジーで掛け算すれば——勝てると思った」
佐伯は黙っている。
「全部、負けない場所を選んでただけだ」
翼の声が——震えの中で、明瞭だった。
「サッカーで負けた時——もう二度と負けたくなかった。だから勝てる場所だけを選んだ。成功する場所だけを探した。佐伯さんのGROWも、PDCAも——全部、勝つための道具にした。違う。違ったんだ。佐伯さんが教えてくれたのはそういうことじゃなかった。『翼はどうしたい』って——あれは勝ち方を聞いてたんじゃない。佐伯さんは俺にもっと深いことを聞いてた。でも俺は——勝つことしか考えられなかった。勝てる答えしか返せなかった」
翼の手が膝の上で握りしめられていた。指の関節が白くなっていた。
「チームを作った時も——沙織や結衣が成長するのを見て、俺は嬉しかった。でも……あの嬉しさの中にも、『俺が育てた』っていう手柄が混じってた。汚い。全部汚い」
佐伯は何も否定しなかった。
しかし——翼は佐伯を見た。佐伯の目が少し赤くなっていた。泣いてはいなかった。しかし佐伯の中の何かが——反応していた。コーチの顔ではなかった。翼はそれを見た。佐伯もまた——何かを抱えている。その予感が翼の中を通った。
部屋の中にはもうコーヒーの香りはほとんど残っていなかった。代わりに——二人の間に、言葉のあとの静けさがあった。重い静けさではなかった。何かが通り過ぎた後の——少しだけ軽くなった空気だった。
窓の外の光が少し強くなった。午後の日差しがカーテンの隙間を広げた。泣いている翼の横顔に——光が少しだけ届いた。翼はその光に気づいていた。
告白が終わった後、長い沈黙があった。
あのマンションを支配していた沈黙とは質が違った。何かが通り過ぎた後の沈黙。重いが——暗くはない。翼の頬には涙の筋が乾きかけていた。拭っていなかった。
翼はソファの隅から少し姿勢を変えていた。佐伯はテーブルの反対側に座っている。空のカップが二つ。
佐伯の姿勢が変わった。
翼はそれに気づいた。佐伯の背筋が——少し落ちていた。出会ってからずっと、佐伯は常にまっすぐだった。今——背中が僅かに丸くなっている。
佐伯が口を開いた。
「……俺の話を、してもいいか」
声のトーンが違った。コーチの穏やかさではなかった。一人の人間が、重いものを持ち上げる前の声だった。低く、少しだけ軋んでいた。
翼は顔を上げた。佐伯を見た。佐伯の目が——いつもと違っていた。翼を導く目ではなく、翼に何かを差し出そうとしている目だった。
翼は何も言わなかった。しかし——佐伯を見ていた。それが「聴く」の合図だった。
「大学の時、黒沢って男がいた」
佐伯の声は順序立っていた。しかし——翼の事業説明とは違っていた。感情が完全には隠せていなかった。
「俺の一番の親友で、一番の相棒だった」
佐伯の目が遠くを見ていた。窓のカーテンの向こうを見ているのではなく——もっと遠い場所を。
「大学の時に会った。お互い不器用だった。俺は理論ばかり語って人の気持ちが読めない男で、黒沢は行動が先で計画が後の男だった。正反対だった。だから——合った。酒を飲んで、麻雀をして、くだらない企画を一緒にやる中で——気づいたら一番近い場所にいた」
佐伯の声に、遠い記憶を辿る柔らかさが混じった。
「俺が概念や戦略を考えて、黒沢が実行する。逆もある。俺が人の前で話すのが苦手な時、黒沢がフロントに立った。プレゼンは全部黒沢がやった。黒沢がデータの整理で行き詰まると、俺が構造を作った。互いに補い合ってた。周りから——『お前たちは半分ずつで一人の経営者だな』と言われた。褒め言葉だったのか皮肉だったのかわからないが——的確だった」
佐伯の語りに——微かな自嘲が混じった。
「周りが大学を卒業して社会人になっていく頃、俺は一人で会社を立ち上げた。社会人向けの教育事業だ。大学時代に独学で身につけた勉強の方法論と、人に教える経験——それを土台に、人材育成の研修プログラムを作って売った。個人向け、中小企業向け。需要に嵌まった。気がつけば年間で一億の売上が動いていた。バイトで月十万稼ぐのがやっとだった人間には、リアリティがなかった。でも、それが現実だった」
佐伯の目が遠くなった。
「黒沢はその頃、大手の人材会社に入っていた。新卒で営業に配属されて、トップセールスまで登り詰めた。俺が一人で会社をやっている間——あいつはあいつの道を歩いていた」
佐伯は一つ息を吐いた。
「売上が踊り場に来た。伸びが止まって、支出が増えて——このままでは来期の成長は難しかった。全部一人で抱えていた。俺は自分の限界を感じて——外部のコンサルタントを招いた」
佐伯の指がテーブルの上で僅かに動いた。
「師匠だと思ったんだ」
語尾に微かな苦みがあった。
「最初はいい関係だった。鋭い人間だった。俺が二週間かけて考えたことを、十五分で構造化した。しかし——いつの間にか、俺は全ての意思決定を『師匠に聞いてから』にしていた。自分で考えることをやめていた」
「体が動かなくなった」
佐伯の声が少し落ちた。翼は佐伯の手を見た。テーブルの上に置かれた手が——僅かに力を入れていた。指の関節が白くなっている。
「朝、オフィスに行くのが怖かった。ベッドから起きて、シャツを着て、靴を履く。そこまではできた。でも玄関のドアを開けられない。手がドアノブにかかったまま——五分、十分と動けなくなった」
翼は息を止めた。佐伯が——「怖かった」と言った。
「事業の重圧のせいだと思っていた。でも本当は——権威に服従することで、俺自身が止まっていたんだ。自分で考えて、自分で決めて、間違えるのが怖かった。師匠が正解をくれるなら——俺は間違えなくて済む。そう思っていた」
「六年やって、会社を畳んだ。一人で立ち上げて——一人で壊した」
「閉業した後——しばらく何もできなかった。数年経って、黒沢から結婚の報告が来た。久しぶりに飲んで、奥さんとも意気投合して三人で飲み明かした。その頃にはもう一度やりたいという火が、灯り始めていた」
佐伯の声に柔らかさが混じった。
「黒沢に声をかけた。法人向けの人材開発——企業の中で人を育てるためのプラットフォームを作りたい。一人じゃなく、二人で。黒沢は——前途ある大手を辞めて、来てくれた。人生をかけて、俺の構想に乗ってくれた。あいつの決断に——深く感謝していた。その感謝が、後に遠慮に変わった」
佐伯の表情が——僅かに曇った。
「黒沢がビジネスの推進を担い、俺が技術や現場の統括。互いの得意を活かした分担のはずだった」
佐伯は一拍置いた。
「でも、役割分担というのは、実際には俺にとって都合の良い言い訳だったんだ。ビジネスをやることに自信がなかった。それがなぜなのかも、なんとなく感じてはいたけれど、きちんと向き合っていなかった。ビジネスなんて汚い場所だから、その汚れに巻き込まれたくない。正直に言えば、そんな風に思っていた」
佐伯の目が——自分の手を見ていた。
「確かに、ビジネスに汚い側面はあるよ。綺麗事だけでやっていられる世界じゃない。でも——そうやって自分は汚くない側に立つことで、俺は自分を守っていたんだ」
佐伯の声が——少し乾いていた。
「俺たちはいくつもの投資を受けた。将来有望なベンチャーとしてメディアに取り上げられることもあった。そうやって十年、必死でやった。でも——結局は同じことの繰り返しだった」
翼が——口を開いた。
「……何が、繰り返しだったんですか」
佐伯は一拍置いた。
「黒沢に——本当のことを言えなかった。一社目は一人で潰した。二社目は——黒沢がいたのに、同じだった。表面上はうまくやれていた。意思決定も分担できていた。でも——怖いこと、不安なこと、本当に大事なことを腹の底から話すことが、できなかった」
佐伯の声が——僅かに揺れた。
「コロナ禍で経営が苦しくなって——お互い心身ともにボロボロだった。かつて二人で描いた会社の明るい未来は、もう存在していなかった。俺は——本当は、黒沢とずっと会社をやっていたかった。そういう夢を追いたかった。でも——十年やった会社を続ける気力が、その時の俺にはもう残っていなかった。去年の三月に畳んだ。翼、お前に出会う少し前のことだ」
佐伯の声が変わった。記憶の中で最も痛い場所に近づいている声だった。
「最後の日にオフィスに行った。黒沢が先に来ていた。自分の荷物をダンボール一個にまとめていた。本とマグカップと——最初の大口案件を取った時に、関わったメンバー全員で撮った記念写真。百人近く写っていた。黒沢はそういう男だった。自分の手柄にしない。全員の顔を残しておきたかった。——十年分が、ダンボール一個に収まる。黒沢がそれを抱えて——ドアの前で振り返った」
佐伯が——一度だけ目を閉じた。
「俺を見ていた。何かを待っていたのかもしれない。十年間言えなかったことを、最後に言うのを。引き止めるでもない、謝るでもない——ただ、本当のことを。でも——何も言えなかった」
佐伯は一呼吸置いた。翼をまっすぐ見た。
「——翼の父親と同じだよ。何も言えなかった」
翼が息を飲んだ。
「二つの会社を畳んで、やっとわかった」
佐伯の声が——静かになった。低く、しかし震えはなかった。
「なぜ俺は黒沢に言えなかったのか。なぜ二度も同じことを繰り返したのか」
一拍。
「——俺の父親は大工だった。内装業。喋りが得意な人間じゃなかった」
翼の目が広がった。
「小学一年の頃まで、父親と暮らしていた。記憶はある。大きな手。木くずの匂い。しかし母親との対話が成り立たない人間だった。教育にも苦手意識があって、俺の養育にはほとんどかかわらなかった。離婚した後も数回は会ったが——深い関係にはならなかった」
「母親は強い人間だった。文句を言わなかった。ただ——父親の話をしなかった。触れてはいけない場所があった。家の中に——空白があった。食卓に椅子が二つしかなかった。それが普通だった。でも友人の家に行くと椅子が三つあった。四つある家もあった。俺はそれを見て——何も言えなかった。聞けなかった」
佐伯の声が——一段低くなった。
「俺が十七の時、父親が死んだ。四十七歳。肺がんだった。タバコと——大工の仕事で使ったアスベスト。死ぬ直前に、父親の親友から連絡が来た。『会いに来い』と。——俺は行けなかった」
佐伯の声が——止まった。数秒の間があった。
「十七で、学校もやめてた。荒れてた。だが——本当の理由はそこじゃない。母親のフィルターで父親を見ていたんだ。母親は父の悪口を言わなかった。ただ——触れなかった。家の中から父の痕跡を消した。それが俺には『あの人間は家族を捨てた』という意味にしか聞こえなかった。だから——恨んでた。死にかけてる人間に会いに行くほどの情が、あの頃の俺にはなかった」
沈黙が落ちた。
「ほとんどの失敗は取り返せる。何年かかっても、取り返す方法がある。しかし——取り返せないものもある。父に会いに行かなかったこと。それだけは——取り返しがつかない。それを後悔と呼ぶなら、後悔は未来に跳ね返すしかない」
佐伯の声が——静かだった。怒りも悲しみも——すでに通り過ぎた後の声だった。
「権威との付き合い方のモデルを持っていなかった。父親がいれば——権威に対してどう振る舞うかを見て学べたかもしれない。しかし俺にはそのモデルがなかった。だから師匠に出会った時、依存するか反発するかの二択しかなかった。対等に向き合う、ということができなかった」
佐伯は少し間を置いた。
「ビジネスや社会の見方も——同じ構造だったんだと、あとになって気がついた。物事には裏と表がある。きれいな面と汚い面がある。それを誰かから教わっていれば——嫌悪せずに済んだのかもしれない。でも俺は小さな頃から学校に馴染めなかった。子どもにとっての社会は学校だ。俺はそこで既につまずいていた。大人になって、俺にとっての社会は起業というフィールドになった。——そして俺は、そのフィールドを根本的には恐れていたし、嫌っていた」
佐伯は——一度、深く息を吐いた。
「俺は、自分の殻に閉じこもったままだったんだ。それに気づくことのないまま、自分にとって都合のいいように解釈し、そこに他者を巻き込んだ。黒沢を。社員を。関わってくれた人たちを」
佐伯の目が——遠くを見ていた。
「都合の良い方だけを見て、悪い方には蓋をして、生きていくこともできるのかもしれない。でもそうやって蓋をしたままでいると、気づかぬ間に内側から腐ってくる。自分でも気づかぬくらいわずかずつ、自分が駄目になっていく。そして気づいた時には、身動きが取れなくなっているんだ」
一拍。
「俺の会社が、ビジネスがうまくいかなかった理由を数えればいくらでも挙げられる。でも——本当に根本的な原因が何かを、時間をかけて考えたら、これ以外にないことに思い当たった」
「それに気づくのは辛いことだったよ。すべては——自分が気づいていなかっただけで、自分が招いた失敗なのだから。しかも、それによって多くの人を傷つけ、夢をも失った」
翼は自分の父を思った。
「翼と俺は似てるよ」
佐伯が言った。声が低かった。しかし——柔らかさがあった。
「翼は父親がいたのに距離を取った。俺は父親がいなかったから距離の取り方を知らなかった。どっちも——統合できなかった」
佐伯の目がまっすぐ翼に向いていた。逃げていなかった。声は揺れていたが——目は据わっていた。
「俺だって失敗者だ」
佐伯の声が——低く、しかし明瞭だった。
「翼の話を——ずっと聞いてきた。セッションの間も、今日も。聞きながらずっと思っていたよ。これは俺の話でもあるんだと」
翼は——数秒間、言葉が出なかった。
「……佐伯さんが……失敗者」
佐伯は小さくうなずいた。
「コーチの仮面をつけて、翼に向き合ってた部分がある」
佐伯の声が——さらに静かになった。
「翼に——初期のセッションで『翼はどうしたい?』と訊いた。覚えてるか。あの問いは正しかった。コーチングとしては正しかった。だが——俺がその問いを使う理由は、もう一つあった」
佐伯は自分の手を見た。カップを持っていた手。セッションでノートを取っていた手。翼を導いた手。
「問いを投げている間は——俺が答えなくていい。翼の話を聴いている間は——俺の話をしなくていい。コーチという立場は——盾にもなった」
翼はその言葉を正面から受け止めた。
「立派な師匠でいようとした。翼の前で弱さを見せたくなかった。『こいつは俺が育てた』と——どこかで思っていた。翼がチームのことで『俺が育てた』と思っていたように——俺も翼に対して同じことをしていた」
翼は佐伯を見つめていた。
「——黒沢にそうだったように、翼にも——本当のことを言えなかった。同じことを繰り返していた」
佐伯が初めて——微かに目を伏せた。その視線がテーブルに落ちた。二つの空のカップの間に。
翼は——佐伯が「コーチ」であることをやめたのを感じた。仮面を、自分で外したのだ。
「……でも、佐伯さんは来てくれた。今日、ここに」
翼の声は柔らかかった。
佐伯が顔を上げた。翼を見た。翼が佐伯を見ていた。テーブルの上の二つの空のカップが同じ高さにあった。
長い沈黙があった。苦しい沈黙ではなかった。先ほどの告白の後の沈黙に似ていた。しかし——今度は二人分の重さがあった。
部屋にコーヒーの残り香がまだ微かに漂っていた。午後の光がカーテンの隙間から柔らかく入ってきていた。
佐伯の告白が終わった後——二人は黙っていた。
長い沈黙だった。穏やかな空気だった。
翼はソファの隅にいた。佐伯はテーブルの向こう側に座っている。空のカップが二つ、テーブルの上で向き合っている。
翼が窓のカーテンに目をやった。
カーテンの隙間から午後の光が細く差し込んでいた。
翼は立ち上がった。
佐伯は何も言わず、翼を見ていた。
翼が窓際まで歩き、カーテンに手をかけた。布の感触が指先にあった。軽い布だった。こんなに軽い布一枚で——部屋の中から世界を遮断していた。翼はカーテンを引いた。一気にではなく——少しだけ。
光が帯になって部屋に入った。
午後の光は暖色だった。冬のマンションの白い壁に、柔らかな橙色が差し込む。翼の横顔に光が当たった。半分が影、半分が光。
翼はソファに戻った。光が斜めに部屋を横切っていた。二つの空のカップの片方に光が当たり、もう片方は影の中にあった。
佐伯が姿勢をわずかに正した。
「……もう一つ、話しておかないといけないことがある」
翼が佐伯を見た。
佐伯の目は——翼と向き合っていた。
「高城さんのことだ」
翼の表情が動いた。目がわずかに開いた。高城の名前を翼が聞くのは——あの退職以来だった。あの日、翼は高城の前に立ち、独立の意志を告げた。高城は椅子の背にもたれ、翼をまっすぐ見て——「負けたら戻ってこい。席は空けておく」と言った。翼はあれを社交辞令だと思った。あるいは——上司の気遣いだと。
「高城さんのことって——」
「翼がネクスト・キャリアに入社した時の話だ」
佐伯は一呼吸置いた。言葉を選んでいるようだった。事実を正確に伝えようとしている人間の間だった。
「高城さんは、翼が入社した当初から——俺に育成プログラムの作成とコーチングを依頼していた」
翼の目が見開かれた。
「……最初から?」
「ああ。翼がネクスト・キャリアに入社した日だ」
佐伯の声は穏やかだった。しかし——はっきりしていた。
「二社目を畳んだ後、俺は人生で初めて就職活動をした。その時、最初に出会った経営者が高城さんだった。落ちぶれた俺の資質と可能性を見抜いて——『うちのメンバー育成を手伝ってくれないか』と声をかけてくれた。翼のことも——最初から見ていた」
翼は黙っていた。呼吸が浅くなっていた。
「翼が入社初日に高城さんの前でプレゼンした時——終わった後、高城さんが俺に連絡してきた。開口一番——」
佐伯が少し間を置いた。
「『この社員の育成をお願いしたい』」
翼は動けなかった。
「翼は当時、自分の実力で結果を出している——そう思っていただろう。間違いじゃない。翼には力があった。しかし高城さんは、翼の力だけではなく——翼が見えていないものを見ていた」
翼は佐伯の言葉を聞きながら——高城との記憶を辿っていた。
「期待している」と高城が言った。翼は営業成績への期待だと思った。そうではなかった。高城が期待していたのは——翼の成長そのものだった。
「面白いチームだな」と高城が翼のチームを見て言った。翼はチームの成果への評価だと思った。それもあっただろう。しかし高城はもう一つの意味を持たせていた——翼が人と関わることで変化していく過程そのものを、面白がっていた。
「負けたら戻ってこい。席は空けておく」。翼はこの言葉をずっと——上司の社交辞令として処理していた。高城は立場上そう言ったのだと。
違った。
高城は本気だった。
翼が独立すること、翼がぶつかること、翼が失敗するかもしれないこと——高城はそれを止めなかった。止めれば翼は成長の機会を失う。高城は翼を信じていたのではない。翼が何を選んでも——そこから学ぶ力があることを信じていた。
「高城さんは——俺と定期的にミーティングをしていた。翼の状況を共有し、プログラムの方向性を調整した。俺はコーチとしてだけでなく、高城さんの経営パートナーとして翼に関わっていた」
翼は自分の手を見た。
「俺が……知らないところで」
「ああ」
佐伯はうなずいた。
「知らせなかったのは——意図的だった。知っていたら翼は身構える。『管理されている』と感じる。高城さんはそれがわかっていた」
翼は息を吐いた。長い、静かな息だった。
「あの人は……全部見えてたってことですか」
佐伯は少し間を置いた。
「全部かどうかはわからない。でも——翼が自分で気づくのを待っていた。それだけは確かだ」
翼は窓の方を見た。カーテンの隙間から差し込む光が——少し傾いていた。午後が深まっている。
高城翔太という人間のことを、翼は考えていた。
入社した時から——高城は翼を見ていた。翼がエースとして結果を出す様を見ていた。翼がチームに苦しむ様を見ていた。翼が独立を決める日を見ていた。そして——翼が失敗して戻ってくる日を、席を空けて待っていた。
翼がチームのメンバーに対して「俺が育てた」と思っていたのと——高城の「育てる」は質が違った。翼の「育てた」は——結果を出させるために育てた。高城の「育てた」は——失敗することも含めて、育った。
翼は自分が「育てていた側」だと思っていた。しかし翼自身もまた——育てられていた。高城と佐伯に。翼が知らない場所で、翼が傲慢にチームを動かしている時も、翼が事業を立ち上げて失敗に向かっている時も——誰かが翼のことを見ていた。
翼の喉の奥が熱くなった。鼻の奥がつんとした。目を閉じた。
長い沈黙の後——翼が口を開いた。
「……あの人には、勝てないな」
翼が笑った。
頬の筋肉がわずかに動いた。それから口角が緩やかに上がった。息が鼻から静かに抜けた。声は出なかった。しかし——確かに笑っていた。
佐伯が翼を見ていた。佐伯の目にも——笑みがあった。微かな、しかし確かな笑み。
「負けてないさ。まだ何も決まってない」
佐伯の声は穏やかだった。あのセッションで「翼が決めることだ」と言った時の声に——似ていた。
翼はこの言葉に答えなかった。黙って、窓からの光を見ていた。
午後の光が翼の顔に当たっていた。
翼が自分で開けたカーテンからの光が——翼の横顔を照らしていた。
テーブルの上の二つの空のカップに、午後の光が両方とも当たっていた。影の中にあったカップにも——光が届いていた。
コーヒーの残り香はもう消えかけていた。代わりに——窓から入る冬の午後の空気が、部屋に流れ込んでいた。冷たくはなかった。